お茶とは人生のようであり、人生とはお茶のようである

人生の浮き沈みは、まるでお茶のように、苦くもあり甘くもある。
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祖父は元々布の問屋を営んでいましたが、思いがけず突然の火災に見舞われ、会社は全て焼けてしまいました。そこで農業を始めることとなったのですが、当時の地主は土地を貸す相手に対して条件が厳しく、農地の家賃は前払い制でした。しかも収穫した穀物は一部を種として残すほか、残りは全て地主に納めていたため、1年間は苦労の連続で、3食全てがお粥でさえも贅沢なことでした。そこで自分たちで積極的に荒地を開墾することにし、斧と塵取りを手に埔尾溪付近の荒地を開墾しました。その当時は道路もなく、辺り一面が雑木林やすすき野原で、野生動物たちがいるような場所を徐々に掘り起こし、数々の困難を乗り越えながら黙々と作業をしていました。しかし掘り起こした田畑が恐らく台風による洪水の影響で全て流されてしまい、またどん底につき落されましたが、幸いに家族はみな無事だったので、一日一日、一年一年と復旧作業にあたりました。幼い頃父親とともに荒地の開墾をしていたことを思い起こしてみると、裕福な家庭の子供が勉強や遊びにいそしんでいるころ、私は朝から晩まで田畑で草削りや土こなしを行い、害虫が発生する頃には虫取りをし、作業に疲れたら上を向いて青い空や雲を仰ぎ、未来を夢見ることもなく、時間があれば野菜を摘み、山で拾ってきた木を使って3食の準備をし、お茶の木に伸びてきた新芽を眺めるしかありませんでした。茶葉市場の価格が安定している時は、収入があるために飢えをしのぐことができ、額から流れる汗も甘く感じ、口元も自然にゆるみましたが、茶葉の価格が徐々に低下し始めると、新芽が一日一日と大きく育つにつれて悩みの種も多くなり、毎日眉間にしわをよせて過ごすことになりました。産業が落ち込んでいる時は、自ら手掛けたこの茶業を諦めるかどうかの決断に迫られましたが、しかしこのまま止めてしまえば、土地に注いだ苦労や、流れる汗、流れる涙が、一晩で全て無駄になってしまうと、様々な問題に向き合わなければなりませんでした。